山本善心の週刊「木曜コラム」 今週のテーマ     民族の源流回帰こそが国家繁栄の鍵

2010年10月07日

戦後、旧ソ連が健在であった頃、わが国の左傾化は全盛期を迎えていた。狂信的なマルクス・レーニン主義を信奉する先生方が“進歩的文化人”ともてはやされ、思想界を闊歩した時代である。当時は国と郷土、家族を愛するとか、憲法や国の安全について語れば、右翼とか軍国主義者と烙印を押された時代であった。

 それゆえ、わが国固有の伝統的な民族文化や民族宗教という呼称は否定され、民族主義という言葉を使うだけで変な眼で見られたものだ。旧ソ連は世界を赤一色に染めることが目的であり、それに反発するソビエト人民を階級闘争という名目の下、非国民として大量虐殺を行って来た。

 階級闘争とは「政治権力をめぐり支配階級と被支配階級との間に行われる闘争」である。これは政治権力に反する人民を抹殺するものであり、マルクス主義ではこれを歴史発展の原動力とみなした。旧ソビエトのスターリン時代、民族という問題は無視され、一様に人民と階級闘争に集約されている。

民族主義に帰着した旧ソ連邦

 しかし、民族観のない国家などあり得ず、人民と階級闘争だけの社会は存在価値を失うしかなかろう。しかしながら、当時のソビエト共産主義者らは「ソビエトにはすでに民族問題はない」と言い、意に沿わない人民はスターリン独裁下で抹殺された。

 当時のソビエト共産党の実態とは、弾圧と粛清による封じ込めそのものであった。その結果、ソビエト連邦の民族分断による国家分裂を招き、「人民と階級闘争」は、民族主義への回帰という歴史的帰着を見たのである。

 
 筆者が最も尊敬する知識人の一人、韓国の名門、延世大学元教授であった故李圭浩氏は30年前、グローバル化の到来を見越して、「世界の経済は国境を越えて一つの単位になるが、国家と民族は永遠に不滅である」と語っている。皮肉なことにあの中国共産党は、民族主義で国を一つにまとめようとしていまいか。

米国提唱の「自由とデモクラシー」裏に潜むもの

 わが国教育基本法の全文の第一条には、「世界の平和」「人類の幸福」「個人の尊厳」「個人の尊重」「真理と平和を希求する人間」という文言が随所に出てくる。これらの教育を受けた落とし子の一人、鳩山由紀夫前首相らは東ガス田を「平和の海」と言い、「竹島」を「友好の島」と言った。しかし、今回の中国漁船衝突事件で「日中友好」「平和の海」という大義は崩れ落ちた。

 わが国近海に眠る資源が近隣諸国によって勝手に採掘されても平和を希求すると言う政治家資質の貧しさは、日本民族に災厄をもたらす元になろう。教育基本法の第一条にある米国傀儡理念である平和主義というキャッチフレーズの影響で、わが国政治と外交が完全な行き詰まりと機能不全に陥ってしまった。

 日本国憲法をはじめ、戦後制定された数々の基本法案はすべて米国の都合で作られたものだ。我々は自由と民主主義とは西側陣営の共通する価値観として認識してきたが、この甘言の裏に「日本の国益を損じる何か」の存在に気づかなかったといえまいか。

民族、伝統と向き合い、異文化と共生する

 わが国国民は国家、民族という概念を失い、わが国為政者も国益という概念を溶解させつつある。「世界の平和」と無防備な姿勢を謳うことで自らを慰めて来たが、米国からは国富を収奪され、中国からは領土領域を奪われようとしている。

 郷土や伝統文化、民族の誇り、家族愛が教科書から削除されて久しい。これまで国歌や国旗を掲揚することさえ拒絶する国民が大勢を占めている。わが国の総理大臣である菅直人氏は国旗国歌法採決時に「天皇主権時代の国歌」と反対票を投じ、いかなる場合でも国歌は歌わないと拒否している。一方、岡田克也元外相の民族意識の薄い態度に外務省幹部らが「これでも日本人か」と閉口した。

民族は溶解しない

 「民族」の定義とは、「宗教、共同体、文化的自治、民族語使用の権利」であり、そのうえで「血縁、精神、文化、伝統、言語、慣習、領土」という統一体を共有できよう。これら共通の価値観を確立した領域内で民族的統一体としての公法、私法上の権利が保持できるというものだ。こうした偉大な歴史的遺産のうえに今日、我々があろう。

 戦後のある時期、わが国国民はこれらの民族という言葉すら否定する傾向があった。しかし、民族の存在なしには、かつて人民と階級をすべての価値観とした旧ソ連や旧東ドイツのように、結局国家を解体させるしかない。また、皇民化政策による日韓併合時代には日韓が一つの民族体として同一政策と同一民族政策を試みたが、戦争終結と共に韓国は民族の独立を回復している。南北朝鮮の分断もやがて一つの朝鮮民族というコップの中に収斂されていこう。

自由化は米国への追従か

 あらゆる世界的傾向や思想の原則を追求すればするほど、人類の原点は民族のより強固な確定の中に国家が存在するとの実態を世界の歴史が証明していよう。ドイツが国家として犯した大犯罪の一つにユダヤ人抹殺の大虐殺があったが、彼らはユダヤ民族との断絶を完結することはできなかった。

 かつて、中国からわが国に仏教と儒教が伝わって来たが、わが国は全面的に受け入れることはせず、良いものは受容し一部は排除した。それゆえ日本文化に適合させても、つまり、普遍主義の押し付けに影響されず、外交文化を受容し自己流が変節したことにわが国民族の幅の広さと奥行きの深さがあった。

 しかし、戦後占領下の7年間に米国から押し付けられた数々の法案は、いまだに憲法をはじめ、形を変えることなく継承されている。現今、米国主導のグローバルスタンダードによる貿易と資本の自由化という甘言を全面的に受け入れたわが国経済はボロボロに壊れてしまった。我々は自由とか民主主義という言葉に籠絡されてきたとは言えまいか。

国家解体を促す民主党の危険な政策

 民主党政権下で、外交、防衛、憲法、教育、さらには経済、外交面で先行き不透明な状態が続いている。鳩山、菅政権とも就任早々「日本の過去」にこだわり、日本の過去を否定する発言でわが民族を侮辱する姿勢を内外に表明した。首相が自国の過去を悪と断罪し謝罪と反省を行うことで、わが国民は誇りと自信を失いつつあるといえまいか。これはわが日本民族の世界に誇る優越性をあえて破壊する愚かな行為だ。

 これらの最も顕著な例が、尖閣諸島で中国漁船が海上保安庁巡視船「みずき」に衝突した事件である。わが国政府は「日本の法律に則り粛々と対応する」と事あるごとに言って来た。これは明らかに中国船長の判断で行った巡視船への公務執行妨害であった。前原誠司外相は「ビデオ撮影もしており、どちらが体当たりしたかは一目瞭然」と語っている。しかし、訪米中(9月24日)の温家宝首相は証拠が無いと見え透いた「嘘」を言い、「主権と領土で妥協しない」と表明。そのうえ対日圧力を連続的に加えることで国家意思を剥き出しに攻勢を強めて来た。

 わが国は少なくとも、これらの攻勢に対して「尖閣はわが国固有の領土である」と主張し、中国船長らの「公務執行妨害は国内法に則って処分する」と繰り返しながら釈放した。首相、外相はニューヨーク滞在中、世界に向けて正当性を声高に発信すべきである。これは日本民族の存在感に係わる本質的な問題ではなかろうか。今後「日中友好」「平和の海」という非現実的な文言は使うべきではない。日中間に平和と友好は無いのである。

経済・外交は日本民族の復活次第

 今やわが国全体が国家国益という概念に薄れ、自分たちの機関や団体の権益に全ての中心が置かれるようになった。「脱官僚」政治と言っているが、政治が無知無能であれば何もできないばかりか、政治主導とは一皮剥けば利害と暴走である。

 マルクス・レーニン主義とソビエト共産党のコミンテルンは「嘘」を手段として、一時的な勝利を勝ち取ったが、「人民と階級闘争」による一握りの権力者に都合のよい社会は成立しなかった。同じように、「嘘」で世界を翻弄してきた中国も最後は「真実」という正義の壁に制裁を受けざ      るを得まい。

 わが国が今後アジアで生き残り、経済と外交を復活させるにはさらなる民族性への回帰が必要だ。わが国の前途はひとえに日本民族へ意識回復如何であり、これこそがわが国の抑止力となろう。今から460年前フランシスコ・ザビエルはわが国に二年間滞在し、「日本人は富よりも名誉を重んじる」「私が出会った世界の民族のなかで日本が最も優れている」と日本民族を称賛した。日本に帰化した小泉八雲など、こうした事例は数多く伝えられている。世界から尊敬された時代の日本民族に、その源流を改めて見つめなおし、確固たる民族意識を取り戻すことが今や問われて止まない。

次回は10月14日(木)です。