山本善心の週刊「木曜コラム」 今週のテーマ     日台アジア会議 李登輝氏講演(前編)

2011年07月28日

7月17日から3日間行われた弊会主催の「日台アジア会議」の一部講演の模様を順次当コラムにて紹介していく。まずは18日午後、2時間余りにわたって行われた李登輝元総統による講演内容を二週にわたってお届けしたい。

「台湾と日本 百年来の歴史及び今後の関係」
講師/李登輝 台湾元総統

「日台アジアの会議」の皆さん、本日はわざわざ台湾の淡水までご苦労さまです。今日は私から見た百年来の日台関係についてお話したいと思います。

まず、台湾と日本は同じ西太平洋に位置する島国の国家であり、北から南まで島々が連らなっています。両国は最も近い近隣関係にあり、人的交流はもちろんのこと、経済に至っては非常に密接な関係にあります。

しかし、日台両国は共にその外在の物的環境だけを重視し、内在的精神の了解に欠けているといえます。これは今日台湾と日本の文化交流における大きな問題です。私が今日お話をするテーマ、「台湾と日本 百年来の歴史及び今後の関係」は、台湾の立場に立ち、この百年来の両国の歴史発展を中心に、政治と文化の三段階に分けてお話することにします。

まずは、1895年から1945年までのことです。台湾の日本植民地時代、台日関係は一国家の内部問題に属していました。第二段階は1945年から1990年までの国民党が統治していた頃の台日関係です。第三段階は1990年から現在に至るまでです。この三段階における様々な変化が台日間の歴史発展にどう影響をもたらしたかをご説明しましょう。

一、日本統治下の台湾は近代社会に邁進 ~「新台湾人」の誕生

日本は台湾を五十年間統治しました。この間、台湾に最も大きな変化をもたらしたのは、何といっても、台湾を伝統的な農業社会から近代社会へ邁進させたことです。また、日本は台湾に近代工業資本主義の経営観念を導入しました。台湾製糖株式会社の設立は、台湾の初歩的工業化の発展となり、台湾銀行の設立により、近代金融経済を採り入れました。度量衡の貨幣を統一して、台湾各地の流通を早めました。1908年の縦貫鉄道の開通により、南北の距離は著しく短縮され、嘉南大しゅう(灌漑水路)と日月潭水力発電所の完成は農業生産力を高め、工業化に大きく一歩踏み出すことができました。

行政面では、全島に統一した政府組織が出来上がり、公平な司法制度が布かれました。これらの建設は台湾人の生活習慣と観念を一新させ、台湾は新しい社会に踏み出ることができました。

また、日本は台湾に新しい教育を導入しました。伝統的な私塾は次々と没落し、台湾人は公学校を通して新しい知識である博物・数学・地理・社会・物理・化学・体育・音楽などを吸収し、徐々に伝統の儒家や科挙の束縛から抜け出すことができました。そして世界の新知識や思潮を理解するようになり、近代的な国民意識が培われました。1925年には台北高等学校が開設されました。1928年には台北帝国大学が創立され、台湾人は大学に入る機会を得ました。ある者は直接、内地である日本に赴き、大学に進学しました。これによって台湾のエリートはますます増え、台湾の社会の変化は日を追って早くなりました。近代観念が台湾に導入された後、時間を守る、法を遵守する、さらに、金融・貨幣・衛生、そして、近代の経営観念が徐々に新台湾人を作り上げていきました。

二、台湾意識の台頭

台湾人は新しい教育を受けたため、徐々に世界新思潮と新観念を抱くようになり、台湾人の地位が日本人に比べて低いことに気付き、台湾意識が芽生え始めました。

1920年ごろ、台湾人は西側の新思潮の影響を受けて様々な社会団体を作りました。議会民主・政党政治・社会主義・共産主義・地方自治・選挙・自決独立など様々な主張をしました。日本は台湾人に当然の権利を与えるべきだと要求しました。こうした台湾人の政治運動と主張は日本の制圧によって成功しませんでしたが、台湾は台湾人のものであるという考えが生まれ、台湾人の一致した主張となりました。これは戦後国民党に対抗する大きな理念と力になったのです。

政治的社会運動の力に押されて、台湾文学、台湾美術、台湾歌劇なども続々と生まれ、台湾人意識を主体とする台湾文化も樹立されました。

三、戦後、国民党は「日本化」を抹殺し、「中国化」を導入

1945年国民政府が台湾を接収した後、「日本化抹殺」の政策をとり、台湾人に対し、日本語をしゃべるべからず、書くべからずを強要しました。国民党は日本語の雑誌、映画なども制限し、「日本化」を消し去ると同時に、中国人の観点による歴史文化を注入し、台湾人を中国人に変えようとしました。

台湾と日本の関係は1945年以後、急速に変わり、国民党の反日政策のため、台湾の若者は徐々に日本離れをし、日本を知らなくなりました。日本が台湾を統治した歴史は教科書には載らず、歴史学者も研究しなくなりました。日本教育を受けた先輩たちがおおっぴらに日本を語らないのは国民党の目を恐れていたからです。

国民党の大中華思想の教育のもとで、台湾人の気質にも変化が現れました。法の遵守・勤勉で、清廉、責任感などの美徳は失われ、反対に中国人の投機性、法を知って法を破る、善悪転倒、賄賂特権の習性は強くなる一方で、台湾人精神も日を追って失われていきました。

国民党の強力な政治主導体制の下で、国民党が台湾を代表して日本と結ばれた関係は、日本をして国民党の歴史と観点しか知りません。台湾人の歴史や台湾人の主張は知る由もありません。ところが、台湾と日本との経済往来はかなり密接で、友好関係を保っていました。

四、戒厳令体制と台湾民主運動

1945年10月、国民党政府が台湾を接収した後、特権が横行したため、政治は腐敗、物価は高騰し、社会秩序は混乱を招き、一年半を経たずして、1947年2月、二二八事件が起こり、火種は台湾全島に拡がりました。国民党は中国大陸から兵を送り込み、鎮圧にあたり、台湾のエリート、民衆を数万人惨殺し、台湾人を恐怖の底に陥れ、台湾人の政治に関わる勇気を喪失させました。

1945年5月、国民党政府は台湾に戒厳令を布き、しばらくして中国大陸の内戦に敗れて台湾に退いてきました。そして自らの政権を堅固なものにするため、多数の反対分子を逮捕しました。これがいわゆる1950年来の「白色テロ」と呼ばれるものです。国民党はさらに「反攻大陸」を国策とし、独裁体制を作り上げました。そして戒厳令は38年間も続き、1987年になってやっと解除されました。これは前代未聞の事であり、台湾人がいかに言論思想や結社の自由を剥奪されていたか、不安と恐怖の中での生活だったか、皆さんも想像できるでしょう。

戒厳体制を打ち破るため、台湾のエリートたちは長い時間をかけ、多数の犠牲者を出し、倒れてもやまず、絶えず奮闘した結果、国民党も遂に譲歩せざるを得ませんでした。私、李登輝が台湾人として初めての総統に就任してからの12年間は、何とかして台湾の人民の期待に沿うことができるよう、「民主化」と「台湾本土化」の政策を実行しました。先ずは、いわゆる万年国会を解散、終始させ、中央民意代表(国会議員)を全面改選しました。さらに、1996年には歴史上初めての人民による総統直接選挙を実行しました。その結果、「主権在民」の観念を徐々に定着させることができ、自由民主の社会が打ち立てられ、台湾人民は国民党の統制から離れて、台湾主体の観念を持つようになりました。

五、1990年後は台湾に新国家建立の潮流現る

下から上へ突き上げる民主の力こそ台湾を変える原動力です。この力は、台湾内部の政治構造を変えたばかりでなく、台湾と中国の関係も変えました。過去の内戦型対立状態から国と国の関係に変わりました。台湾は平等互恵の立場で、中国と平和互恵の関係を樹立したいと思っております。

このような力の源は、実は日本統治時代に遡ることができるのです。台湾意識が芽生えた後、台湾人はすでに自決独立の主張をしました。戦後、台湾人が二二八事件の災難に遭った後、この独立運動が始まり、1990年代になり、国内と海外の力が交わって、新国家建設の原動力となりました。多くの日本人が、中国の宣伝や脅しに乗って、「台湾は中国の一部であり、台湾は独立の条件が整っていない」と思っておられるようです。しかし、一度台湾に来られて、台湾人の考えを聞き、活気あふれる台湾の社会を見て、台湾の自由民主を感じた方ならば、台湾がなぜ新国家を建設するのか、おのずとわかっていただけると思います。(続く)

次回は8月4日(木)です。