山本善心の週刊「木曜コラム」 今週のテーマ     幻に終わった満州国建国

2011年10月06日

前号では中国黒竜江省方正県にある旧満蒙開拓団の慰霊碑撤去と日本人の満州移民ならびに満州の資源、農業事情などの意見を述べた。これは日本政府・関東軍の戦略のまずさと無責任な行動で日本人移民を悲劇に追い込んだ経緯を明らかにしたものだ。今回は満州の権益を巡るソ連、中国、日本の葛藤、日本軍と移民団の敗北・撤退など当時の満州を巡る実態を語ってみたい。

1931(昭和6)年9月18日に起こった満州事変は、わが国が中国侵略を行った第一段階であるとの見解がこれまでの定説であった。これらについては専門家を除いては満州事変から日米開戦に至るまで「軍部の独走」で起こった侵略戦争だと片付けるものが多い。わが国の満州侵略説は満州を舞台に捏造されたものが多いとされ、真実は日本政府が満州国の近代化に多大な貢献をもたらしたとの説もある。

当時、満州は中国の領土ではなく、侵略したのは中国であり、チベット問題と同じだと考えてよい。わが国は資源と肥沃な農耕地に恵まれた満州を開拓し、経済活動を行うことであった。日清戦争時代、3千万人余であった日本人口は毎年100万人ずつ増えて30年後には6千万人に増加する。日本国民は民族存亡のため、資源や食糧不足を満州に求めた。

当時欧米列強は英帝国ブロック、米ブロック、ソ連ブロックなどに分かれていたが、植民地国の資源、世界購買力権益の大半を欧米に占有されていた。わが国は資源封鎖によって八方塞がりの状況にあって、これら欧米の対日封じ込め経済政策の影響が及ばない満州はわが国にとって唯一希望の星であった。

わが国先人たちは、幕末から明治維新を起点に開国し、近代化と資源獲得に奔走し、国家の存続と共に闘ってきたのである。19世紀植民地時代は日本とタイ、ネパール、ブータンを除きアジア諸国の大勢は西欧列強の植民地国家であった。わが国は徳川三百年という自給自足の時代からペリーの砲艦外交をキッカケに改革開放、近代化の仲間入りを果たしている。それゆえ、近代化と自存自衛と富国強兵は避けて通れない選択であった。

各国の称賛を浴びた日本軍の態度

1900(明治33)年、中国で義和団事件が起こった。宗教的秘密結社を名乗る義和団の義民らは、北京にある諸外国の公使館区域を包囲し、宣戦布告。これに驚いたイギリスと8カ国の連合軍は中国に近い日本に派兵と鎮圧を求めた。わが国は中国に居留する家族を守るため約1万人を派兵した。日本は諸外国の要請に応えて外交官や居留民を救出する。中国の不安定な治安を監視するため8カ国が議定書をつくり、彼らの強い要請に応えて、わが国は支那駐屯軍を配備した。これが日本軍中国入りの真相であった。

しかし、ロシアはもともと日本軍の派兵と世界8カ国の救援要請に反対である。本心はむしろ諸外国の公使館区域にいる籠城者を皆殺しにして壊滅させることであった。それゆえ北京域内のロシア担当区域は外国人への殺戮が相次いだ。この義和団事件をキッカケにロシアは満州に居座った。

この義和団事件でもっとも活躍したのは、日本軍である。日本軍の北京担当区域では、略奪もなく、治安が保たれていた。日本軍は軍紀に厳しく、満州住民から称賛を浴びたのみならず、各国の信頼は絶大である。1902年「日英同盟」が締結されたのは、義和団事件で見せた日本軍の軍紀の厳正さと勇敢な態度に共感したことがキッカケであった。

戦後、わが国の首相は「中国を侵略した」「中国人民に苦痛と苦しみを与えた」とまるで中国に対して侵略を行い悪事を働いたかのごとく積極的に謝罪している。これは中国側が政治的に捏造した歴史観をわが国内の謝罪チームが連動したものだ。

満州国の独立を望んだ溥儀

満州国皇帝溥儀は、日本を利用して満州が支那から独立し、独立国家になることを望んだ。これは溥儀の家庭教師であるジョンストンの著書「紫禁城の黄昏」に詳しく書かれている。「満州」は満州人の領土であると認め、満州国の独立を18カ国が承認した。1932(昭和7)年3月1日は満州建国の日である。わが国は満州近代化への援助とインフラ整備を行い、各国が目を見張る近代国家へ変貌を遂げた。しかし、日本の権益になることを好まない中国国民党の蒋介石と中国共産党ならびに背後にソ連・コミンテルンが日本の排除を虎視眈々と狙っていた。結局、中国共産党が満州を侵略し日本が作った莫大な遺産を手中にした。

追い詰められた満州の関東軍

満州国はもともと満州人の領土であり、中国人の領土ではなかった。歴史的には万里の長城で隔てられているように別々の国である。わが国は、満州人たちの自発的な独立運動を支援し、日本の権益を確保することであった。1928(昭和3)年、満州を支配していた張作霖は関東軍により爆殺された。さらにその息子の張学良は父の後を継ぎ、反日宣戦を布告し、満州全土を支配した。しかし、この政権は国家予算の85%が軍事費に廻され、数年先まで税金が強制徴収されるなど悪政は満州人民を苦しめた。

満州事変は、奉天郊外で満州鉄道が爆破された柳条溝事件がキッカケである。その後約1万5千人の関東軍が約40万人といわれる張学良軍と戦い張軍を一気に撃退した。張軍は馬賊盗賊の寄せ集め軍であり、訓練された関東軍の相手ではなかった。しかし、日露戦争の起こった1904年以来、3千万人近い支那人が近代化された満州に流入した。

さらに、ソ連はシベリア鉄道の複線化などで満州に軍備増強を拡大した。それに加えて米国は華北に5万人前後の海兵隊を送り込んだ。ソ連と米国は犬猿の仲であったが、対日戦線では利害が一致している。日本は日露戦争に勝ったが、満州ではソ連、中国、米国を相手に孤立の戦いを強いられた。

満州国の近代化

この時代は相手国が弱いとみれば、その隙につけ込み、侵略し、領土を奪い合う弱肉強食、群雄割拠の時代であった。当時はこれが常識の時代であったが、今日から見れば非常識だと思われよう。

満州国内では、ソ連、中国人らによる悲惨な対日惨殺事件が相次ぎ、日本人居留民が安全面で居住できない環境となる。彼らは陵辱、暴行、略奪事件をはじめ、日本人家族に“痛みと苦痛を与える”陰惨な事件が相次いだ。

わが国はロシアの南進を阻止するため日露戦争を戦い、満州、韓国、台湾のインフラ整備を行った。わが国は近代産業を移植し、治安を維持することで、強力な別天地を創造するとの思いがあった。韓国や台湾の併合は自衛のためであり、満州は食糧、鉱物資源など豊富な経済的権益を確保するための生命線だった。

幣原外相の“弱腰外交”が日本の命とりに

満州が中国から狙われた最大の要因は満州民族の中にリーダーシップをとる強力な指導者がいなかった。中国本土からやってきた張学良政権は中国国民党の蒋介石政権に接近して大量の漢民族を満州に移住するよう要請した。

満州に移植した中国人らはわがもの顔で闊歩。中国人が満州を我も我もと移植する中で、日本軍は満州国を建国以外に流入を阻止する道はないと危機感を募らせた。わが国の幣原外相がワシントン体制の維持による満州国の承認に踏み切ったのも中国人民の大量移植に対する恐怖に他ならない。

しかし、この幣原外相がどっちつかずの外交政策を取り続けた。欧米諸国との協調・平和外交をとりながら満州の権益援護を図ろうとする軟弱外交を見て中国は対日攻撃を仕掛ける。これら中国の排日勢力を武力で排除することが幣原外相のとるべき外交政策であったが、結果的に日本の弱腰外交が命とりになった。

左翼支配国家の実態が露呈

当時の弱肉強食の世界にあって、相手を思いやる日本人精神は通用しない。すべて軍事力が国際紛争の解決手段であり、勝者が正義の世界であった。古今東西、世界史の中で平和憲法と平和主義で平和を未来永劫実現できた事例はない。軍事力なき平和主義の行き着く先は奴隷国家に陥るか、満州国のように消滅するしかない。

わが国政官内に潜入する一部の勢力は反米、親中をキャッチフレーズに、日本を弱体化に誘導する動きが顕著だと見られてきた。彼らの狙いは日教組、旧社会党系職員、革命的労組、親中韓派議員らで、日本の土台を根源的に破壊しようする見えない勢力だとの声が強い。

これらは民主党内にはびこる勢力によってつくられたものであり、所詮政治は舞台で踊らされている人形に過ぎないとの声も漏れ伝わる。わが国は、竹島が奪われ尖閣を放棄してもよいと考える本質的な思想と存在について、これからは見直しが急を要する。人のいい日本人は洗脳されやすいというが、わが国が弱体化する体制に着々と組み込まれつつある現実を、与野党議員の一部に「これではいけない」との気づきが見られるのは嬉しいことだ。

次回は10月13日(木)