山本善心の週刊「木曜コラム」 今週のテーマ     尖閣問題で高まる憲法改正意識

2010年10月28日

わが国を取り巻く国際環境は厳しくなるばかりだ。これは富力の時代(経済至上主義)から武力の時代(覇権主権)への転換期にあると、歴史学者の言を待つまでもない。今や経済的には成熟時代を迎え、成長から衰退への転換過程を迎えている。

 この30年間、われわれはかつてない贅沢三昧の生活を享受してきた。そして経済的繁栄による、刹那的な快楽に酔いしれ、国民の大勢が精神の荒廃にむしばまれ、無気力な国民に成り下がったとの見方がかまびすしい。その間、少子高齢化に伴う人口減少や国家の未来を先送りしてきたツケが、いまわが国の政治経済に重くのしかかっているようだ。  

 隣国の中国は軍備拡張に明け暮れ、虎視眈々と周辺諸国やわが国領土を狙っている。今回の尖閣騒動も漁民に扮した解放軍兵士が中国政府の方針の下にとった行動であるが、このような危機的状況にも拘らずわが国政府や霞ヶ関は事なかれ主義を繰り返して来た。目下、自国防衛問題でしっかりした体制が急務とされている。

自衛隊は違憲か

 わが国に迷走と衰退をもたらした最大の要因は日本国憲法にあると言ってよい。現憲法は作成当時、占領軍が“精神の植民地主義”を植え付け、日本弱体化を目的として作成したものである。それゆえ社会主義革命派がそれに便乗し、巨大な組織と権力を構築するに容易であった。

 わが国「平和憲法」は戦争を認めていない。自衛隊は軍隊ではないと言い、戦争が起きれば同盟国の米軍兵士が血を流すのを横目で見ながら「お手伝い(後方支援)しましょう」と言うのが関の山だ。

 これまで旧社会党や日本共産党は自衛隊の存在は違憲であるとの見解を説いてきた。当時、自衛隊違憲説は多くの憲法学者らによって盛り上がりを見せて来たが、では自衛隊に代わって誰が国を守るのかという問いに答えていない。
 
米ソ冷戦下でなおざりにされた憲法論議

 戦後から現在に至るまで、経済至上主義の過程で憲法を論じることは限られていた。それが出来たのは米ソ冷戦構造と不可分に結びついていたからである。わが国は米国の軍事力に甘え、憲法の内容はおろか枠組自体疑うことなく、自国を守るという概念と責任を放棄した経緯は周知のことだ。

 しかし、過去に「自衛隊合憲説」が全くなかったわけではない。大別すると憲法学の京都学派では佐々木惣一氏や弟子の大石義雄氏、林修正氏であり、その流れを汲む勝田吉太郎氏であった。勝田氏は、「京都大学の教授らの大勢は赤く染まった布地であったが、そこにぽつんと孤立した白い点線があった」と筆者に語ったことがある。その白い点線である勝田氏は憲法改正の急先鋒となり、岸信介元総理らと全国に講演行脚に出られたのは知る人ぞ知るところである。

日本解体を目論む護憲派

 護憲運動は、わが国の解体を目論む旧社会党と共産党などにとっては終局の標的であった。わが国を解体することですべてを共産主義に染め上げることが彼らの仕事である。その左翼政治至上主義を実現するためには政府や国民を洗脳し、天皇制廃止や憲法擁護の世論づくりの必要があった。

 彼らの意図する世論形成には巨大な発行部数を誇る大新聞の先導が不可欠であった。一部大新聞の購読者は旧社会党、共産党などを支持する労組、市民団体などである。そして、護憲世論に反対する国民に対して“右傾化・反動・軍国主義者”と烙印を押すことで巧妙に改憲派を牽制してきたものである。

 しかし、護憲派の論理は矛盾だらけで、いまや周辺諸国からの脅威に対して機能不全だ。彼らの主張では国民の生命と財産が守れないし、矛盾の綻びが北朝鮮による拉致問題であった。野党や一部大新聞はつい最近まで拉致はないと言ってきた。その結果、旧社会党は消滅し、一部大新聞の発行部数は大激減したと聞いている。

守るべき国家とは何か

 これまで憲法論議はなおざりにされてきたが、尖閣諸島問題というわが国への危機的状況が昂じて、憲法改正への国民の関心が高まりを見せ始めた。

 なぜ改憲か。わが国民が自国の憲法で武力を行使できないとする条項は世界で初めてのケースではなかろうか。また自国の国旗に敬意を払わず国歌を歌わない首相がリーダーであるのは世界の七不思議の一つと見られている。愛国心のないリーダーを持つ、わが国民に未来があるといえようか。

 これらの症状を治療するには憲法改正の焦点である第9条及び前文の改正が急務ではなかろうか。誰でも憲法と言えば第9条を念頭に描いている。憲法第9条では「国際紛争を解決する手段として」戦争を放棄すると定めているが、相手国から攻撃を受けた際の自衛の行為については定められていない。尖閣や対馬を相手国の軍事力で奪われた場合はどうするのか。つまり現在から見ると第9条は自衛戦争を放棄する憲法だ。

安倍政権下で憲法改正に道筋

 2007年5月14日、安倍内閣は憲法改正の手続きを定める国民投票法を成立させた。憲法施行以来60年余、初めて具体的な憲法改正に一歩踏み出すことができたのである。さらに、安倍首相は集団的自衛権に関する懇談会を設置した。改憲案が関連する項目ごとに区分して発議する法案が成立したことは喜ばしいことだ。

 草案では「国権の発動たる戦争を武力による威嚇または武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては永久にこれを放棄する」とした憲法9条第1項は添えおくとして、第2項だけでも全面改定して、平和と独立、国家国民の安全を確保するため自衛軍を保持するとの内容に改正すべきではなかろうか。

 時代の変革によって憲法を改正するのは世界の常識である。わが国憲法が制定以来60年余、一度も改正されていないというのは異常であった。しかも、憲法は占領下というどさくさに紛れて作られたものでなおさらだ。憲法とは本来その国の賢明な祖先の叡智の中からの発見や積み重ねた結晶に基づいてつくられる規律である。このような視点から、改正の必要があるのはまず第9条の第2項であり、また89条の後半も検討を要する。わが国の上空を北朝鮮のミサイルが飛び交い、尖閣周辺に横行する中国解放軍の漁船等が存在感を強めるなか、国家緊急権の法制化こそは緊急課題だ。

自衛隊は憲法違反

 そもそも戦争はなぜ起きるのか。戦争の定義とは、領土を巡る争いであり、話し合いで解決しない場合は武力の行使によって紛争を終結させるのが戦争の歴史であり、世界の常識に他ならない。ゆえに「一国平和主義」とは非現実的であり、「日中友好」とは国民の警戒心を溶解するだましの文言だとの意見もある。

 かつての時代は「自衛のためであっても戦力は持てない」と社共両党は自衛隊違憲説を唱えてきたが、今日では非現実的な考えであることは衆目の一致するところだ。吉田内閣の時代には自衛隊を「戦力なき軍隊」と規定してきたが、現今の自衛隊は精巧な戦闘機や艦船、潜水艦、ミサイルなど世界的にみて一級の戦力を擁している。社共両党はこれらの戦力は憲法違反と言って来た。それでも護憲なのはわが国を弱体化し真っ赤に染めるという目的がある。

 戦後、保守自民党も野党も憲法問題を政争の具として長年もてあそんできた感がある。保守政治の基本は、あくまで憲法中心である。警察予備隊から保安隊、さらに自衛隊と進化していく過程を経て、世界でトップ3に入る軍事大国になっていた。憲法を改正せず、軍事増強を進めてきたのは国民に対するごまかしに他ならない。

今こそ国を守る憲法を

 筆者はこれまで憲法問題については台北の大学で論文を発表したり、台湾のシンクタンク「群策会」と共催で憲法をテーマにシンポジウムを開催するなど日台の地道な活動を行ってきた。今、わが国に欠けているのは、守るべき国家とは何かという視点である。政治は国民の財産と生命を守る使命があるが、事なかれ主義の与党をはじめ、国家観の背骨が溶解しつつある政治にその視点は全く見られない。

 今後経済はさらに衰退していくことが予想される。憲法制定以来60年余、わが国は経済至上主義に溺れ、政治はわが国の国益や未来を先送りし、自国を守るという最重要課題を放置してきた。

 こうした状況下で、わが国民の間にも、政府は頼りにならない、亡国政府との心理が長期にわたり醸成されてきた感がある。わが国を取り巻く国際情勢がさらなる厳しさを増しているのは、国が国民を守らないと宣言した憲法にそのすべての根元があると言えまいか。

次回は11月4日(木)です。