山本善心の週刊「木曜コラム」 今週のテーマ     日本の植民地政策(上)

2012年02月09日

本書は筆者と二十年来の付き合いであった大先輩・張炳楠氏に依頼した植民地時代に関する寄稿論文である。張氏は、台湾に生まれ、22歳まで旧日本帝国の植民地下で教育を受けた人であり、当時の植民地時代を最もよく知る学者だからであった。台湾・淡江大学教授、日本研究所長も務めた張氏は、台湾と日本帝国主義に関するあらゆる研究・活動を続けてこられた、近代史の専門家である。本書は筆者と意見を異にする見解もあるが、これは解釈の仕方というものであろう。今回から3回にわたり、張炳楠氏の論文「日本の植民地政策」を皆さんにご紹介したい。

日本の植民地政策
ー朝鮮と台湾を比較してー

元台湾・淡江大学教授 日本研究所長 張炳楠

昔から諺にあるとおり、「勝てば官軍、負ければ賊軍」であって、日本が勝てば中日戦争は聖戦であり、「侵略」といった言葉を使う必要もない。日本の植民地統治政策も、日本が勝ったとしたら偉大なる功績として謳歌されただろうし、支配者も大英雄として崇められたであろう。しかし敗れたら一文の価値もないのが世相というものだ。しかし、筆者は学術の中立性と客観性の立場から本文を綴りたいと思う。

筆者は台湾に生まれ、22歳まで日本帝国の植民地下で教育を受け、大学二年在学中に終戦を迎えた。この目で見た植民地政策と支配者の権勢のうらで、被支配者の哀れさ、人、事、物が浮
かんでくる。幸いに筆者は1966(昭和41)年より台
湾省文献委員会委員長を命ぜられ、在任中の11

年間に台湾史の百科全書、計25冊からなる「台
湾省通史」の編纂をはじめとして、数多くの台湾歴史書の出版に携わった。その後、政府委員や県知事を歴任し、行政の実務を体験したうえで、中国文化大学教授、政治学科主任、台湾史研究所長を務めたのである。筆者は植民地統治がもたらした専制と、祖国復帰後の実情をつぶさに比較考察する立場にあった。

日本の植民地獲得の経緯

日本は明治維新後、国内の政治、経済の基礎が固められると、軍部が台頭するなかで欧米列強の後を追い、領土の拡大政策を進めた。すなわち、日清戦争の勝利から台湾を皮切りに、日露戦争で南樺太を、朝鮮の併合、開発の名目として新南群島を植民地として獲得したのである。
また、日露戦争の勝利で関東州を租借地として譲り受け、第一次世界大戦によって南洋群島を植民地として獲得し、委任統治した。こうして日本帝国は昭和14年までに、ほぼ本国に匹敵する約38万平方キロメートルの植民地を獲得したのである。

法政上、日本帝国本来の領土は「内地」、日本人は「内地人」と定められ、対して、植民地には「外地」という言葉がつくられた。しかし、「外地人」という言葉はない。植民地人は地域によって次のような呼称がつけられた。台湾では「本島人」(漢民族)及び、蕃人(高砂族)。
朝鮮では「朝鮮人」、関東州は「支那人」、南洋群島では「島民」と称し、樺太土着民は「土民」となる。
日本の領土拡大は、以上にとどまったが、筆者が強調したいのは、軍事戦略から言っても台湾の領有は、その後の日本帝国の上海、福建、広東、華南、仏印及び南洋諸島方面への進出拠点としての足場となり、朝鮮の併合は満州国の建国と、中国大陸への足場となった。しかし、日本は第二次世界大戦で破れたため、これらの植民地やすべての支配圏から引き上げたのみか、自国領土たる全千島をソ連に奪われ、北海道、本州、四国、九州と若干の島々に逼塞することとなった。

朝鮮と台湾の統治政策の差異

日本が獲得した植民地の中で、台湾と朝鮮は政治的にも軍事的にも、あるいは経済的にも最も大きな比重を占めている。

欧米列強は16、17世紀からアジアで勢力を伸ばし始めた。日本は明治維新以降、清国とロシア両国と、韓国における利権を巡り、争奪戦を展開したのである。1885年に伊藤博文と清国の李鴻章が天津条約を結び、日清両国は朝鮮から撤兵すること、および今後朝鮮に出兵するときは、あらかじめ相手国に通告することを約束した。この条約締結後、日本は朝鮮に対する主導権を握るべく、軍事力の増強を企てる。そのようななかで、1894年に朝鮮国内で民族主義者による農民の反乱、東学党の乱が起こった。清国政府は朝鮮政府から出兵の要請を受けて、天津条約に従って出兵を日本に通知し、日本もこれに応じて出兵。日清両国は反乱鎮圧後の朝鮮改革をめぐって対立し、同年8月、ついに日清戦争が始まった。
戦争は日本軍の圧倒的な勝利に終わり、1895年4月、両国は英国の調停を受諾し、下関条約を結んで講和した。その主な内容は、
1)清国は朝鮮を独立国として認める
2)遼東半島、台湾、澎湖諸島を日本に割譲する。
3)二億円の賠償金を日本に支払う。
4)新たに沙市、重慶、蘇州、杭州の四港を開港するとした。
1895(明治28)年5月8日、日清講和条約の批准交換が完了し、台湾は法的に日本帝国の領土になる。伊藤博文内閣総理大臣は、5月10日、海軍指令部の樺山資紀を海軍大将に昇進させ、初代台湾総督に任命するとともに、日本軍の先陣として北白川“宮”能久親王の率いる近衛師団第一旅団が台湾東北端の澳底から上陸、樺山総督は6月6日に基隆に上陸し、同17日に始政式を挙げた。これでも全台湾の平定は予定よりも長い時間と兵力を動員して、5カ月後を経て、全島はひとまず平定する。

なお、台湾統治の最高権力者台湾総督も「土皇帝」と呼ばれるほど絶対的な権力を有したが、19代総督をもって日本の台湾支配は終焉した。台湾は50年と3カ月の間、日本の統治を受けたが、1945年10月に正式に祖国中国に復帰した。

朝鮮は併合

日本は明治初年より最も近い隣国韓国を併合したいという野望を抱いていた。すなわち日露戦争中(1904年)に第一次日韓協定を結んで顧問政治を認めさせ、1905年の第二次協約で外交権を奪って、今日のソウルである漢城に統監府を置き、伊藤博文が初代統監となる。さらに1907年には第三次協約を結んで内政権までおさめたので、親日派と反日派とが激しく争い、多くの韓国国民の強い反発を招き、韓国各地で義兵が反日抗争を行った。1909年には伊藤がハルピン駅頭で暗殺された。それをきっかけに寺内正毅は数十隻の軍艦を動員して、威嚇を加えながら、1910年8月22日に、日本はあらかじめ用意した日韓併合条約を親日派である韓国の李完用総理につきつけて調印させた。韓国は地図の上から消され、日本の植民地となる。従来の統治機関であった「韓国統監府」が朝鮮総督府と名称を改め、第三次統監寺内正毅はそのまま引き続いて初代総督となった。
宋建鍋著「日帝支配下の韓国現代史」によれば、日本は併合を目前にして、日本人より韓国人自らが合併を願っているという様々な術策を弄した。その中の一策が一進会の利用である。一進会は李容九ら率いる親日団体で、日本軍部の支持を受けており、内閣総理大臣李完用は統監府の支持の下にある。日本帝国は一進会と李総理に暗闘を続けさせ、合併の功労に対する売国性を競わせた。

ところで、1910年7月に寺内が新統監としてソウルに就任するや、李完用総理は寺内を訪問して密談を交わす。8月22日李総理は皇帝の臨席のもとに御前会議を開き、併合条約を可決した。李総理はすぐその日の午後4時に、寺内を訪ねて御前会議の経緯を説明したうえで、日韓両国は併合条約に調印した。韓国の反対派の反発をおそれて、調印の日に、寺内は警務総長明石元二郎に記者を集めさせ、豪勢な宴会を設けた。彼らは情報を完全に封鎖し、韓国人の反抗を弾圧する軍事態勢を完全に備えたうえで、調印一週間後の28日に初めて併合の事実を公表した。合併条約が公布されるや、統監府はすぐさますべての機関を接収し、「韓国皇室礼遇措置」、「朝鮮貴族令」などを発表し、李王家に対する礼遇と措置を決定し、親日派に恩賞を与えたのである。

また金達壽著『朝鮮を知るために』(岩波新書、昭和43年2月)では次の如く書いている。日韓併合後、韓国国王と王族とには150万円の歳費を出して皇室典範に俗する光栄を与え、当時の総理李完用を筆頭として6名の侯爵、3名の伯爵、22名の子爵、45名の男爵、計76名を貴族とし、それぞれに15万、10万、5万、3万の恩賜金を交付した。一進会など政治団体には、一時恩賜金として総額8247万円を支給し、成功のあった旧韓国官吏3645人に合計679万円の恩賜金を出して頭をなでたが、あとに残った民族は、長い間にわたる苦難の道を歩まねばならなかった。(続く)

次回は2月16日(木)