山本善心の週刊「木曜コラム」 今週のテーマ     勝田吉太郎氏が語る君が代・日の丸

2012年09月06日

戦後、“国家”や“公”という言葉を使えば、左翼の方々から“ファシズム、軍国主義者、右翼”とレッテルを張られたものです。政治家たちは“国家”とか“民族”という言葉を使うと非難されるので、市民とか住民という人もいたようです。その当時はオリンピックの表彰式でも国旗掲揚、君が代の流れるシーンはカットされました。最近はやっと日の丸の旗が放映されるようになったわけです。オリンピックは「愛国心」を高揚する場でもありますが、自国に誇りと愛国心のない国民になり下がったと心配したこともあります。

戦後教育の中で「君が代」は非民主的で非科学的な歌であり、「日の丸」は血塗られた「軍国主義」の象徴であると学校教育の場で我々は教えられてきました。しかし、国旗、国歌がどういったいきさつで作られ、世界に比べてどう違うのかなど、真実を教わることはなかったわけです。
いまでは「日本の常識は世界の非常識」という見方がわが国民の中から少しずつ理解され、戦後の思想教育が見直される風潮になってきました。国旗・国歌を軍国主義の象徴とみなした左翼の文化人や左翼の学者、教師らの活動や主張も歳月を経て少しずつ変化しています。しかし、当時は彼らの主張に逆らうことは許されず、立場ある者が「愛国心の涵養」とか「国旗・国歌」を唱えようものなら一斉に攻撃されたものです。

筆者が尊敬して止まない勝田吉太郎氏(京都大学名誉教授)は、当時共産主義で真っ赤に染まった京都大学の中にあって、教授としてただ一点、白い点になって偏向した教育問題に取り組んできた方です。当時、お書きになった本や資料は保存されていますが、今日に見る“いじめ犯罪”など、教育の行く末については、明確に予言されていました。
勝田氏は中曽根内閣の時代に中曽根元総理の知恵袋として教育改正に真摯に取り組んでこられました。今回は「民主教育の落とし穴―戦後世俗化の風土を斬る!!」(1989年 善本社刊)から抜粋し、質問も交え「日の丸・君が代のいきさつ」を対談型式で企画しました。

世界の常識は日本の非常識

― いまでは国民の多くが戦後の民主教育に疑問を呈しています。まず国旗・日の丸のことですが、これまで考えてこられたことを伺いたいと思うのですが。

勝田:日教組の先生方をはじめ、左翼の文化人や学者は国旗を掲揚すると、たちまち忌むべき国家主義の復活であり、「軍国主義の足音が聞こえる」といった決まり文句で反対してきました。1963年秋の思い出があります。当時、オランダのアムステルダムで勉強しておりました。ある日図書館を出ましたら、アムステルダムの市中至るところの建物から一斉に国旗が出ているのです。しかもよく見るとそれが半旗の格好です。一体、何が起こったのかと思い、道行く人に尋ねました。『アメリカのケネディが暗殺されたのですよ。だから、こうして皆半旗を立てているんです』と言うのです。むろんのこと、それは政府や市当局の指令ではなくて、自発的に立てているというわけです。自由世界のリーダーたるケネディ大統領の悲劇的な死を悼むというわけでしょう。それが世界の常識であろうと思いました。

そういえば昭和天皇のご崩御の際、日本では2日間喪に服すことになりました。私どもの京都大学でも本部で半旗を掲げたところ、たちどころにヘルメット学生がやってきてひきずり降ろす有様です。アジアの各国では短いところで3日間、長いところでは、たとえばブータンやスリランカでは6日間も国家が喪に服して半旗を立てたと報じられました。こういったところにも「世界の常識は日本の非常識」という光景が見られます。

日の丸は古来からわが国の象徴であった

勝田:国旗については、「日の丸」が日章旗と呼ばれて太陽をかたどったものであるのは常識となっています。すでに古くは聖徳太子は隋の皇帝に宛てた国書で、わが国を「日出ずるところ」と表現しました。「日の丸」はまさしく日本国の象徴です。

歴史的にはすでに上杉謙信や武田信玄のような戦国武将も、日の丸を旗印に用いたと言われています。豊臣秀吉も文禄と慶長の役で、日の丸を船に掲げたと言います。徳川幕府は幕末にペルーの来航を機に島津斉彬の建議を入れ、異国の船と間違わないように、日本船は日の丸の旗を定めて諸藩に布告したんです。

(日本国国旗)は、文久3(1863)年8月7日に「御軍艦の儀、御国印白地日の丸」と定めました。これを受けて明治政府も明治3(1870)年1月27日に大政官布告57号で、日の丸を国旗と定めたわけです。

国歌「三ない主義」では国際人は育たない

 次は「君が代」について伺います。最近ではやっと小中学校で様々な儀式に国旗の掲揚と国歌を斉唱するようになってきましたが、これまでの経緯や歴史について伺いたいと思います。

勝田:「君が代」は左翼の先生方がずっと以前から「三ない主義」を称えていました。歌わない、弾かない、起立しない。こういう方針を称えていて、しかも他方では「国際人の養成」を謳っています。「君が代」について「三ない主義」を教えられた生徒たちが、やがて外国に行き、その国の国家が歌われたり、演奏されたりする場合に臨んで起立もしないなら、ひょっとしたらひどいことになる場合もあるわけです。少なくともアメリカあるいはソ連(現ロシア)という国でそういう態度を示すなら、暴行されるかもしれませんね。

「君が代」については、左翼の先生方は、非民主的な歌であり、二番目に非科学的な歌であると批判していますが、そういう批判は当たらないと思います。

諸外国の国歌はすべて軍国主義

 外国の多くは軍国主義的で、挑戦的な歌が多いと聞いています。たとえば、中国では「起て! 奴隷となるな 民衆 われらの血をもて築かん 万里の長城」、イタリアでは、「剣をとれ 命を捧げん 命を捧げん」等々、激しい内容ばかりで他国の国歌は「軍国主義」です。左翼の先生方は「君が代」は「軍国主義」だからと言い、「三ない主義」を称えてきましたが、君が代の内容は、平和の歌と感じていますが如何ですか。

勝田:君が代の歌詞は薩摩地方、今の鹿児島県に古くから薩摩琵琶の「蓬莱山」という曲があって、その中に収められています。君が代は「千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで、命ながらえ、雨塊を破らず、風枝を鳴らさじと言えば、また尭舜の御代もかくあらん」

これは、結婚の際とか、おめでたいことがあった時に歌うならわしだったようです。おめでたい歌なんだから、いいだろうということで、日本の国歌ということにしたわけです。この「君が代」の歌詞は905年に、紀貫之たちが編集した「古今和歌集」のなかに「題知らず、詠み人知らず」ということで収められている非常に古い歌で、千年以上も昔にできた歌です。

君が代は世界に類例のない民主的な歌である

 こんな古い昔の歌詞が「君が代」という国歌に決まったいきさつについて教えてください。

勝田:明治2年のこと、イギリスの貴族が日本にやってきました。そこで旧浜御殿の延遼館で歓迎パーティが開かれたんです。そのときにウィリアム・フェントンというイギリス人の軍楽隊長が、「こういう時にはお互いの国歌を最初に演奏する。これが国際的なしきたりです。お宅の国歌は何ですか」と。

こう聞かれて接待係をしていた薩摩の侍たちは困ってしまった。そこで、宗田栄助は、どうしたものかと上司に伺いをたてました。そこで係の者たちが思案し、急遽、「さざれ石」がいいだろうということで「これが日本の国歌です」と言ったのが始まりです。

「君が代」の千代に八千代に…とは平和で繁栄を祈るという意味ですから、左翼の方々が言う、非民主的、非科学的な国歌ではなく、世界の類例のない民主的な歌であり、平和と繁栄を祈る歌だったんですね。

 世界との関係においても、「君が代・日の丸」が如何に大切なことかを教えて頂きました。しかも民主的で平和のシンボルであることを認識することができました。

次回は9月13日(木)